仙台から在来線に乗ること一駅。住宅街を歩き出して空を見上げると、真冬らしくキリリと晴れ上がっていた。私は、釜神様(かまがみさま)という珍しいお面を持っている一軒の家を目指していた。
大きな神社の脇を抜け、教えられた住所につくと、巨木に囲まれた邸宅が現れた。インターホンを押すとエプロン姿の女性が笑顔で迎えてくれた。あや子さん、というこの家の奥さんだ。
「こっちへ、どうぞ!寒かったでしょう、今コーヒーを入れますね」
そう言ってあや子さんはキッチンへと向かったが、私は広々としたリビングの一角に目が釘付けだった。
あれが、例の釜神様かあ。ずいぶん大きいなあ。
五十センチ近くもあろうかというお面。カンカンに怒った表情で、ソファの脇からリビング中を睨みつけている。ここに来るまで、古い日本家屋を想像していただけに、モダンなリビングに戸惑った。この部屋の装飾品としては、どうやっても違和感がある。
「でもね、私たちが子どものころは、古い家には必ずあったのよ」
と、あや子さんは微笑みながら言った。
釜神は、宮城や岩手の一部だけに残る独特の風習である。
カマドの側の柱に飾られていたことから、その名がついた(地方によっては、釜男・カマオトコとも呼ばれることもある)。
昔の釜神は、カマドのすすで真っ黒になり、白く磨かれた目だけがギョロリと暗闇で光ったらしい。
しかし、あや子さんは、祖先からこれを受け継いだわけではない。数年前に、縁あってわざわざ買い求めた。そう高価なものでもないが、何しろ神様である。そして、この憤怒の表情と大きさ。買う時は、ちょっとした勇気がいったことだろう。
「見に行ったら、すぐに欲しくなったの。本当はお台所に置くものだけど、私はリビングに置いたり、和室に置いたりしてます。たまに、頭をなでてあげるのよ。そうしたら、だんだん艶が出てきたの」
あや子さんはコーヒーを飲みながら感慨深そうに話を続けた。「この数年ねえ、震災とか色々あったけど、釜神様はずっと私と一緒に来てくれたのよねえ」
これを作ったのは、松島のある職人さんだ。
今ではたった一人の作り手となった沼倉節夫さんを、その朝訪ねたばかりだった。まず、そこから話を始めたい。
その工房は、仙石線・松島海岸駅のおとなり、高城町駅から歩いて数分の場所にあった。民家の一階がお店と工房になっていて、店先には「自由に見でやってけらいん!」との看板がひっかかっている。
ガラガラとガラスの引き戸を開けると、男性が座っていた。土間のような店の中は冷えるのだろう。帽子にジャンパーを身につけ、壁一面のお面に囲まれている。少し無精髭を生やした顔が、
「なんでまあ、こんなに寒い日にねえ!」
と笑顔になった。それが、沼倉さんだった。
「やっぱり、ここら辺の人にとっても今日は寒いんですね?」と冬の東北の空気に震えながら、私は尋ねた。
「いやあ、寒いねえ」
と彼は言い、ポットから熱いコーヒーを注いでくれた。
三方の壁には、ずらりと大きなお面が並ぶ。
「おい、こら!」と怒り出しそうな顔。鬼みたいな形相もあれば、とぼけた顔もある。でも、ずっと見ていると笑っているようにも見えてくる。そんな不思議なお面の数々。民俗学者たちが、その起源を調査したらしいが、結局は「火の守り神」ということくらいしか、わかっていないようだ。
「昔の大工さんたちがさあ、家を建てた時に余った材料で作ったとか言われてるんだけどね。顔は施主に似せて作ったとか、火の守り神とか色々いうけど、まあ、結局は何かよくわからないんだよねえ」
と沼倉さんもあっさりと言う。
え、そんなものなんですか? 職人さんなら詳しいことを知っているはず、という期待は打ち砕かれた。そこに、奥さんの幸枝さんがケーキを持ってきて、どこかで耳にした釜神伝説を教えてくれた。
「釜男はねえ、ケチくさい男なんだって」
えっ、ケチな男?
「そうそう、働き者の奥さんにもご飯を食べさせないくらいケチ。その男が奥さんを家から追い出してしまうわけ」
東北のなまりが、日本昔話みたいに心地よく響く。
「その後、奥さんの方は大きな屋敷の奥様におさまったんだけどさあ、反対に男は身を滅ぼすの。困った男が、雇ってくださいと入ったお屋敷に、元の奥さんがいたのよ! 奥さんは男を哀れに思ってね、火の番にしてやったんだって」
「そりゃ、本当にしょうもない男ですね!」
現在伝わっている釜神伝説には、いくつかのバージョンがある。もともとは乞食だったとか、おへそをいじくる幼児だったとか、地方によって諸説あるが、結局は、グウタラ者が火の番をするようになった、という話が多い。そんな男が家の守り神になるなんて、ますます不思議なのである。
沼倉さんが初めて釜神様と出会ったのは、今から7年前の52歳の時。仙台の建築関係の会社でサラリーマンをしながら、趣味で仏像の写真を撮っていた。
夫婦で、花山御番所跡(宮城県)に寄った時のことだ。
資料館にあった無骨なお面に目がとまった。
「あれ、なんだべ。“釜男(かまおとこ)”だって」
幸枝さんがそう声をかけたが、沼倉さんは「へえ」と無関心だ。
しかし、家に帰ってしばらくすると、むしょうに気になり始めた。写真を取撮りたくなり、色々と調べてみる。すると今でも、一人だけ存命の職人さんがいるようだ。
「じゃあ、遊びがてらに、行ってみっか」
と軽い気持ちで、釜神職人の大場國夫氏の工房を訪ねた。それが、その後の人生を変えるとも知らずに。
工房には、ずらりと大小のお面が並んでいた。
「すごい迫力で!もう写真も撮るの忘れて、ひたすら圧倒されてたなあ。何がすごいって、睨みつける感じだよね。眼力ってのかなあ」
ひとつずつ表情が違う。
「仏像のようにピシっとしているんじゃなくて、粗ぶりなのが気に入った。ノミの後が残っていて、どこか田舎臭いのがいいんだよねえ」
釜神は、邪悪なものが家に入らないように見張る存在だ。だから怖い顔をしているのだと大場氏が教えてくれた。
すっかり心を奪われている沼倉さんに、大場氏は言った。
「ただ怖いだけじゃないんだど。釜男は家族の一員だから、優しさもふくんでる。ただ怖く作るのは、誰でもできるんだぞ」
大場氏は、この消え行く伝統工芸を、30年間も一人で守り続けていた。
もともと大工だった大場氏は、古い家の改築工事や建て替えの時に、釜神様をたくさん見てきた。名もなき左官屋さん達が作った味わい深い一品。長年家を守ってきたはずなのに、多くの釜神が改築で捨てられてしまう。それを見るにつけ、いつも心が痛んだ。
転機は、大場氏が54歳の時に訪れた。大病を煩い、大工を続けられなくなった。その時、ずっと心にひっかかっていた釜神について調べ始める。そして、この文化が風前の灯火であることを知り、決心した。
―自分がこの文化を残そう。
残存している釜神を見つけ、観察して、何度も失敗しながら自力で作り上げた。それから研究会を開いて釜神文化を広めながら、80歳近くになるまで一人でたくさんの釜神を作り続けてきた。
沼倉さんに妙な考えが浮かんできたのは、工房から帰宅した後だ。
―俺も作ってみっかなあ。
さっそく大場氏に電話をかける。
「私にも彫れますかね」
「あんたね、ノミとか持ったことあるの。ない?じゃあダメだ。ちょこちょこと作れるもんじゃねえんだ!」
沼倉さんは、工房を直接訪ねて再び弟子入りをお願いした。なぜかは分からないが、必死だった。しかし、大場氏も
「もう年だから面倒だ!弟子は取らない」
とひかない。実は、すでに何人もの人が弟子入りを断られていたのだ。
それでも諦めない様子を見て「じゃあ、やってみりゃいいじゃねーか」とぶっきらぼうに言った。大場氏が弟子をとったのは、実にこれが初めてだ。
それから、週末ごとに師匠の工房に通う。初対面では優しそうに見えた師匠は、実は正反対。
「怖いですよー! 昔の大工さんだから。気が短いの。1分でも遅れると、『人に物を教えてもらうのに遅れるとは何事か!』と怒鳴られてねえ」
師匠は、自分の気分が向かないと『もう帰れ!』と言い放ち、その後は工房に顔を見せない。そういう時は、一人で工房の隅で掘り続けた。機嫌が良いときでも、師匠は「あ、そこ違うべー」と声をかけてくれる程度。だから、すべてが見よう見まねだった。
しかし、半年くらい経ったある日、師匠がぽろりと漏らした。
「おめえ、やれっかもしれんな。普通はここまで来るのに5年か10年かかるもんだぞ」
その時、沼倉さんの人生は釜神職人に向かって大きく舵を切った。
柱の上の怖くて優しい神様 宮城県・松島の「工房釜神」を訪ねて 「後編」に続く
川内 有緒 ノンフィクション作家
日本大学芸術学部卒、ジョージタウン大学にて修士号を取得。
コンサルティング会社やシンクタンクに勤務し、中南米社会の研究にいそしむ。
その合間に南米やアジアの少数民族や辺境の地への旅の記録を、雑誌や機内誌に発表。
2004年からフランス・パリの国際機関に5年半勤務したあと、フリーランスに。現在は東京を拠点に、おもしろいモノや人を探して旅を続ける。
書籍、コラムやルポを書くかたわら、イベントの企画やアートスペース「山小屋」も運営。
著書に、パリで働く日本人の人生を追ったノンフィクション、『パリでメシを食う。』『バウルを探して〜地球の片隅に伝わる秘密の歌〜』(幻冬舎)がある。