高校を卒業してついた仕事は、昭和記念公園の庭師見習いだった。
「でも、わずか二日でやめたんです! 蜂に刺されてアナフィラキシーショック(短時間のうちに起こる激烈なアレルギー反応。場合によっては生命を脅かす危険な状態になることも)が起こったんです。でも、先輩たちはそれを笑ってた。人が死ぬかもしれないというのに! それで、やめました」
次についた仕事は、「なんか面白そう」というノリで受けた大手製薬会社。入社試験はものすごい倍率だったのだが、出題された試験問題がたまたま大好きなNK細胞に関するもので、見事に突破を果たす。研究開発部に配属され、その会社で初めての高卒の研究職員となった。
しかし、もともと研究者でもない彼には、何の仕事も与えられず、上司には「あなたは使えない。給料泥棒ね」と嫌味を言われるようになる。
「それは、辛かったですねえ」と私は相槌を打った。しかし、彼はあっけらかんとしている。
「いやあ、全然辛くなかったです! ずっと釣りの本とか読んでましたから。でも、この『座っている世界』ってやっぱりイヤだなあと思って。手に職をつけようと思いました」
そこから、いろいろな職業を渡り歩く東京漂流ライフが始まった。
八百屋、ラーメン屋、ガードマン…….とにかく、嫌いなデスクワークを避けながら、鮎釣りに精を出す日々。そして、24歳で一年発起して調理師の免許を取得。蕎麦にはまり、一流の蕎麦屋で修行を始めたが、そこはミスをしたらフライパンが飛んでくるという戦場のような職場環境。じわじわと窒息するように体力と気力が奪われ、ある夜、上司とけんかになり蕎麦屋を去ることを決意した。
その後はテレビ局の人に声をかけられ、閉園直前のムツゴロウ王国で動物の面倒をみていたこともあった。
「もう疲れ果てました。あの頃は、何にもやる気がしなかった」と土屋さんは言う。
大都会で流されていく日々。そして、まだ何者にもなっていない自分。これからどこでどうやって生きていったらいいのだろうか。答えは出なかった。
そして、半ば鬱状態に陥った彼は、高校時代の経験をなぞるように、再び故郷の森に戻ってきたのだった。
「最初は山に入って、ただじっと座っているだけでした」
木々のざわめきに耳を澄ます。雲の流れを見つめる。川の冷たい水に触れる。
ぼうっとしているうちに一週間が経過した。そのうち、少しずつエネルギーが体に満ちてくるのを感じた。
「そうだ、人間には森が必要なんだ。僕たちは自然に生かされているんだと強く感じました。やっぱり僕は森と一緒に生きようと決めました」
その時、十数年続いた漂流ライフは終わりを告げた。そして栃木でのネイチャーガイドやアウトドアクッキングの経験を経て、再び彼は故郷の森に戻ってきた。

川内 有緒