さて工房の名前にもなっている「ソーンツリー」ってなんの木のことなのだろうか?
「棘がある《いばら》のことで、昔からアメリカなどで、ギターのインレイの代表的なデザインにもなっている木なんですよ」
インレイとは貝や象牙などを使った象嵌細工のことで、ギターにもよく施されている装飾のことだ。細かくて華麗なインレイがふんだんに施されたギターは、単なる楽器の枠を超えて、木工芸品とも言える。
インレイの役割はギターを美しくする、というだけではない。持ち主にとって大切なギターに、イニシャルや好きなものなどの「自分らしさ」を掘り込むという意味もあるのだ。斎藤さんはそんなギターの大切な一部分でもあるインレイの技術を独学で学び、ギターのインレイの象徴とも言えるソーンツリーを、この工房の名前に冠したのだった。
「さっきは、弟子はとらない、と言ったけれど」と斎藤さんは切り出した。「もっと歳をとったらの話だけど。いつかは人に教えたいとは思っているんですよね。やっぱりこれだけ長くやっていると、人が知らない知識の蓄積がありますからね」
まだずっと先のことかもしれないけれど、それはすごく楽しみだ! と思って、私は安心した。この技術を誰も引き継がなかったとしたら、やはり、それは勿体なさすぎる……。話を聞きながら、私はずっとそんなことを考えていたからだ。
さて斎藤さんへの長いインタビューは、すっかり予定の時間を過ぎてしまっていた。「それではそろそろ……」と私が言いかけるのとほぼ同時に、「こんにちは」と言ってギターを抱えた男性が、ドアを開けて工房へと入ってきた。きっとギターの修理を依頼しに来たお客さんだろう。
さあ、斎藤さんのまた新たな仕事の始まりだ。先ほどまでと変わらない、落ち着いた声でお客さんと話を始めた斎藤さんに軽く挨拶して、私は静かに工房を出た。Q太郎がガラス戸の向こうで、見送ってくれていた。

松本美枝子