
岩手といえば、知る人ぞ知る相撲どころは盛岡。江戸時代初期、土俵は四角かった。その後、徐々に現在の丸い土俵に移っていくのだが、現在の盛岡一帯を治めていた南部藩では長らく四角い土俵で相撲が行われていて、昭和30年代まで記録が残っている。これを南部相撲と表し、人気を博した。
日本において、南部相撲がどれだけ力を持っていたのかを知るエピソードがある。岩手県相撲連盟顧問で、山田町相撲協会常任顧問でもある川端信作氏さんはこう説明する。
「1925年に日本相撲協会ができる時、対抗するために、南部相撲を中心とした東北相撲協会を作ろうという話もあったようです」
結局、「統一した日本相撲協会でいいだろう」という判断で東北相撲協会は日の目を見なかったそうだが、南部相撲の強烈なプライドがうかがえる。
この南部相撲の興隆に深くかかわっているのは「越後」の行司名を持つ長瀬家で、その末裔が今も暮らすのが山田町。川端さんによると、盛岡市を中心に内陸部で相撲が盛んな岩手で、内陸に負けじと踏ん張ってきたのが沿岸部の山田町ということだけど、それは山田町に居を構える長瀬家の存在も影響しているのかもしれない。

川内イオ