生まれも育ちも札幌の大雅さん。実は自分が弁護士になるとは全く思っていなかったのだという。
近所の北海道大学法学部に入ったものの、司法試験を目指すことも一切なく、大学4年の夏を迎えていた。
ちなみにアートの方は、学生時代から見るのは好きだったけれど、あくまで趣味であり、こちらもまさか将来ギャラリストになるなんて考えたこともなかった。
就職も決まっていなかったので、見かねた母が、一枚の求人広告を大雅さんに差し出した。これまた近所の法律事務所の秘書の求人だった。
気軽に応募してみたら、倍率が高かったにも関わらず、なぜか受かり、いわゆる「パラリーガル」(弁護士による指示と監督のもと、限定的な法律業務を行う専門職のこと。弁護士秘書、法律事務員とも)として大学に籍を置きながら働き始めることになった。これが最初の転機だった。
秘書として、ボスである弁護士のさまざまな案件を手伝うようになり、いわゆる「闇金」の対応を任されるようになった。初めて電話した時は怒鳴られて、あまりの怖さに男泣きしてしまったのだ、と苦笑いする大雅さん。
だけど泣いたのはこれ一度きりだった。だんだん慣れてくるうちに、ひょっとして自分は弁護士に向いてるのかもしれない、と思うことがたびたびあった。自分はどうもこういう交渉ごとに、へんな度胸があるらしい……。
大雅さんの弁護士としての素質をいち早く見抜いたボスは「大雅くん、きっと弁護士になれるよ、司法試験に専念しなさい」といってくれた。その言葉を胸にいち大学生へと戻った大雅さんは、卒業後、北大大学院から北大ロースクールへと進み、司法試験を突破して、晴れて弁護士になったのであった。27歳の時だった。
こうして弁護士として順風満帆のスタートを切ったのに、なぜ「アート」なんていう茨の道に入ってしまったのだろう? 司法試験という難関な試験を通った人間だけがなれる、いわば選ばれた職業に対して、アートとは、海のものとも山のものともつかない、世間から最もうさんくさく思われている肩身の狭い商売の一つだと、我ながら思うからだ。
私の最大の謎は、それだった。
最初は「カルチャースクールの一つ、みたいなノリだったんですよ」ニコニコしながら大雅さんはいう。
司法修習生時代、他の修習生仲間に誘われるがまま札幌のゴルフスクールに入っていた。しかしいざ弁護士になり、みんなと離れ離れになると、なんだかゴルフスクールに通う必要性がなくなってしまった。
そのゴルフスクールのすぐ近くに、美術専門学校があった。「CAIアートスクール」と書いてある。ここは北海道出身の美術家でアートディレクターの端聡さんが立ち上げた美術の専門学校で、併設のギャラリーは札幌のアートを支えている場所の一つでもある。
何の気なしにこの学校の看板を見て、大雅さんはふと思った。
美術かあ。これを勉強しておくのも、なにか仕事の足しになるかもしれない——。知的財産とか商標とか、そんな美術やデザイン関係の案件もやってみたいし。
これが大雅さんの、次の転機だった。
そうして大雅さんはすぐに「アート」の世界に、どっぷりと浸かってしまうことになるのだ。

松本美枝子