さて勢いで借りてしまったものの、最初の「サロンコジカ」の運営は、想像以上に大変だった。手さぐりの共同運営であり、やってみて初めて「場所を続けて回していくのは大変なことなんだ」と気づいたのだという。しかも家賃や改装費は大雅さんが一人でほとんど出していた。
メンバーはみな仕事を持っているので、ギャラリーの営業は18時から22時まで。もちろん昼間は弁護士としての仕事がある。22時を回れば、当時雇われていた法律事務所へと戻って、また仕事をした。文字通り、朝から晩まで働いていたのだ。
それに借りていた場所はとても古くて、寒くて、修繕費もかさんだ。ちっとも上手く回らない状況に疲れ切った最初の仲間たちは、一人辞め、二人辞め、なんと、ついに大雅さんただ一人となってしまった。大震災の直後、2011年の頃だった。
当時の職場では、18時前にそそくさと帰ってしまうヤツ……、と白い目で見られるし、スクールの仲間は、みんなやめてしまうし…。この頃は本当に辛い時期だった。
「今でもみんなに、あの頃の大雅くんは怖い顔してたなあ、って言われますもん」と大雅さんは笑っていった。
それでも「サロンコジカ」をやめなかったのは、なぜなのだろう? 大雅さんはいつでも「ふつうの弁護士」に戻ることができたはずだ。
「意地になってたんでしょうね」と大雅さんは言った。サロンコジカは、まだ何の形にもなってない。何ごともなしていない。何より、これまでギャラリーのデザインや運営をボランティアどころか手弁当で手伝ってくれたスクールの仲間たちにも申し訳がない。悔しさばかりがこみあげてきた。
そんな浮かない顔ばかりしていた大雅さんを救ったのが、ある晩の飲み会での、札幌のアーティストたちの言葉だった。
「私たちがもっとサロンコジカを使うからさ、大雅くん、やめないで頑張って続けてよ!!」
それは大雅さんの頑張りを見続けてきたアーティストたちの、心からの応援の言葉だった。
もっと、ちゃんとした良いギャラリーを作ろう。僕がアーティストのみんなをしっかり支えられるスペースを作ろう、その時、大雅さんははっきりと胸の中でそう思ったのだった。
こうして新しいスペース探しが始まった。
その間にも、大雅さんは新たなメンバーを募り、少しずつギャラリーの体制を整えていった。
しかし、なかなかいい条件の賃貸物件が見つからない。大雅さんが理想とする天井の高さや、大きな作品が出し入れできるようなドア、どんな作品にも合うちょうどいい床の色……、そんな細かすぎる弁護士を満足させる物件を、不動産屋も見つけることはできなかった。
その頃の大雅さんは、よその事務所に籍を置いていたが、採算は弁護士ごとに独立していた。仕事場と住まいとサロンコジカと合計3つの家賃は、大雅さんのフトコロをかなり圧迫していた。稼ぎの大半が家賃のために消えていく、という状態になっていたのだ。
いい賃貸がみつからない。もう、それなら全部まとめた建物を立てよう。全て同じ場所なら、弁護士もギャラリストもどっちも専念できる! 家賃もうく! と大雅さんは思いついた。こうしてギャラリー兼法律事務所兼住居の設計がはじまった。
建設もなかなか一筋縄ではいかなかった。例えば銀行に収支報告書を持っていくと、「ギャラリーってなんだ? 趣味か?」ということに、すぐなってしまう。とにかく弁護士がギャラリーという業態も行う、ということが理解されにくかったんでしょうねえ、と大雅さんは言った。
ともあれ、こうして2014年に新しい「サロンコジカ」は完成した。1階がギャラリーと法律事務所、二階が住居だが、ギャラリーの天井を高くするために、建物全体の高さをできる限り高くしている。また床下も普通の家より低くして、ギャラリーの空間をさらに広くとっている。大雅さんのこだわりの空間だ。

松本美枝子