
茨城県北芸術祭が始まって、しばらくしたある日。私は初めて鯨ヶ丘の町に訪れていた。
丘の上に登ると、まず町の中心にある、塔屋があるタイル張りの建物が目に入る。ここが茨城県北芸術祭・鯨ヶ丘商店街エリアの中心となる常陸太田市郷土資料館梅津会館だ。この建物は昭和11年に常陸太田市出身の実業家が建てたもので、現在は国の登録有形文化財となっており、市の文化財を保管、展示する資料館として使われている。昭和のレトロな雰囲気を残すこの建物は、この町のシンボルでもある。
この梅津会館の1階で作品を展示しているアーティスト、深澤孝史さんが待っていてくれていた。深澤さんは地域の人々や場の持つ可能性を掘り起こす、ソーシャル型のアート・プロジェクトを数多く手がけるアーティストだ。
深澤さんの今回の作品名は「常陸佐竹市」という。
え? それって「常陸太田市」の間違いじゃないの?! と思う人もいるかもしれないが、そうではない。
常陸太田市は水戸徳川家ゆかりの土地として、よく知られている。市内には徳川光圀の隠居所で、「大日本史」の編纂が行われたという西山荘などもある。しかし実は徳川氏が水戸に入る以前に、この地を含む現在の茨城県北の地に、470年間の長きにわたって勢力を保ってきた「佐竹氏」という一族がいた。関ヶ原の戦いの後、徳川氏によって秋田へと転封された佐竹氏は、その後、秋田の領主として広く知られるようになり、代わって茨城の歴史の表舞台からは姿を消してしまう。
深澤さんはこの地域を知るうちに、実は常陸太田市の、中でも特に鯨ヶ丘の人々の暮らしに、今でも深く佐竹氏の記憶やスピリットが根付いていることがわかってきたのだという。鯨ヶ丘には佐竹氏の居城であった「舞鶴城」があったからである。ちなみに城の名の通り、当時は鶴が茨城の地にいたことも記録に残っている。町の中には戦国時代から続く家臣団の子孫だという人も少なくない。
そこで深澤さんは佐竹氏の歴史や町の人々とのつながりを掘り下げ、もし歴史が変わっていれば実際にありえたかもしれない、想像上の「常陸佐竹市」を町の人々と共に立ち上げ、その歴史展示と「市民活動」のPRのプロセスを梅津会館で展示している。そして、同時に会期中さまざまな「市民活動」を町の人々と協働するアート・プロジェクトなのだ。
展示では町の人々からインタビューを基にした文章と、昔からこの地に伝わる歴史資料を組み合わせながら、佐竹氏のスピリットがこの地域の人々に与えてきた影響力や人々の繋がりなどをテーマに、想像上の市の歴史を物語るインスタレーションを見せている。
「僕はいわばゲストキュレーターとして、ここの歴史資料を使いながら町と人を繋げていく、ということが作品なんです」と深澤さんは説明してくれた。

松本美枝子