そんなある日、私は佐々木さんと深江さんとともに泉山の麓にある一軒の古いお宅に見学に行くことになった。
400年前から続く有田の町には、歴史的な景観の町並みが現在でも残っている。特に内山地区では江戸時代から昭和初期の和風・洋風の建造が数多く残り、伝統的建造物群保存地区として町ぐるみで守る取り組みをしている。
その内山地区に残っている建物だが、ほとんどは文政11年(1828年)以降に建てられたことがわかっている。なぜならその年、有田は大火に見舞われているからだ。いわゆる「文政の大火」と呼ばれるこの大火事は、400年の歴史の中で、有田の町の一番の危機だったと言われている。窯元から出た火事は、その日、西日本を襲った大きな台風によって谷底のような地形の有田の町をまたたく間に巻き込み、町はほぼ焼失してしまったと言われている。焼け野原となった有田は復興に実に30年ほど要したと言われているが、見事立ち直り、現在のような町並みが復活したのだ。
そんな内山の伝建地区の中で、文政の大火より前に建てられたと言われている一軒の住宅がある。泉山磁石場の近くにある、池田赤絵工房こと池田家だ。
池田家の隣には、有田の観光名所の一つである「有田の大イチョウ」がそびえ立っている。樹齢千年、国内有数の大きさととも言われるこの大木に守られて、池田家は火災による焼失をまぬがれたと伝えられているのだ。
そんな池田家には古文書や古い器などが数多く残っているから何かヒントがあるかもしれない、一緒に見に行こう、と深江さんが誘ってくれたのである。ちなみに池田家の主、久男さんは、実は深江さんのおじさんなのだ。
隣の工房兼店舗から作業を切り上げて、甥っ子一行の突然の訪問を快く出迎えてくれた久男さんは、上絵付(うわえつけ。陶磁器の表面に絵を描くこと)を専門に仕事をしている。 深江さんは早速、「おいちゃん、古文書や古い器ば、松本さんに見せてくれんね」と切り出し、久男さんはうなずいて、池田家に伝わる様々な文物を見せてくれた。窯焼きにおける台帳や、周辺の主だった窯元たちと取り交わした連判状、珍しい道具類や、そして江戸時代から伝わる古い有田焼もたくさんあった。久男さんは当時の有田焼の様式を参考にするために、サンプルとしてこれらを大事に取っておいて、折々、見返しているのだ。
江戸時代から明治時代にかけての、様々な色の絵付けが施された大きくて立派な器に混じって、古いタンスの中に、小さな器がぎっしりと詰まっている引き出しが一段あった。それらはすべて染付(白地に藍一色で絵付けされていること)で、他のものに比べると素朴な風合いだが、シンプルな美しさがあった。
これは自宅の畑の中に埋まっていたもんだけん、と久男さんは教えてくれた。小さいけれど、家にある器の中では、一段と古そうなものも幾つかあった。紋様も現代に通じるようなモダンな模様から、オリエンタルなものまで様々あった。それは有田焼のデザインが、中国の景徳鎮(中国の有名な陶磁器生産地)の様式を取り入れ、出来上がった器が国内外に渡ったことの証なのだろう、と私はこの器を見て思った。
有田町出身とはいえ佐々木さんもこのように古いお宅にお邪魔するのは初めてだったようで、私たちは感心しながら池田さんのお家を後にしたのであった。
しかしながら今日もまだ、自分の制作における決定打となる被写体は見つかってはいなかったのである。400年前の韓国陶工と今の有田を結ぶ鍵となるものは、一体何になるのだろうか? 私はまだそれを見つけられないでいた。

松本美枝子