「百姓を継ぐのは嫌だったんだよね、土日はきちんと休めて、平日9時から5時まで働くというサラリーマンみたいな仕事がしたかったんだ」と笑う保田さん。代々この小美玉の土地に住む保田家は、米やサツマイモを作る農家だった。6人兄弟の末っ子で、二人の兄は役場や会社などに就職し、早々に家を出てしまっていたので、保田さんは父親から後継ぎになってくれることを切望されていたという。そして高校卒業後、茨城県内にある農業を担う人材を育成する学校「鯉淵学園」(現在の鯉淵学園農業栄養専門学校)に入学する。
当時の農業は今よりもずっと天候に左右されやすく、一日中、そして一年中休みなく働かなくていけない、そんな仕事だった。そうではなく、もっと近代的な農業がやりたい、そう考えた保田さんは、米ではなく、その頃まだ新しかった園芸の道に進むことに決めたのだった。それまで社会にとってさほど需要がなかった花き栽培は、当時、高度経済成長の波に乗って、都市部の生活の潤いを満たすものとして需要が増え始めていた。保田さんは、そこに目をつけたのである。
保田さんは卒業してから、花の生産の本場である埼玉県の園芸農家で、三年ほど住み込みの研修生として修行した。有名な園芸農家のもとで、来る日も来る日も花に水をやり、ハウスの温度を管理する修行の日々。研修は厳しかったが、ここで園芸の基礎をバッチリと仕込まれた保田さん。何人かいた研修生の中で、今もずっと園芸農業を続けているのは、保田さんただ一人だという。
そして茨城に帰った昭和45年(1970年)にしつ子さんと結婚。22歳と20歳という若いカップルだった。
「3年間は二人でずっと、ポットマムばかり作ったよ」と保田さんは言う。ポットマムとは洋菊の鉢のことで、当時、流行の鉢物だった。茨城といえば日本有数の農業県だが、当時の園芸、特に花き栽培は、農作物に比べると遅れていて、現在のように大きな産地ではなかった。そうした中、保田さんは茨城県内でいち早く温室を作り、ポットマムの生産を手がけたのだった。
花の生産は天気には左右されない。ハウスの中での徹底的な温度と水の管理がものをいう。「花の栽培は、花に対してどれだけ細かく気がきくか、どうかなんだ」と保田さんは言う。
その頃はまだ県内では花の栽培を始める生産者はほとんどいなくて、「うちは一匹狼のような存在だったわねえ、あの頃は」としつ子さんは言った。

松本美枝子