ライチョウの研究も早く、1961年からその翌年にかけて、信州大学と山博が共同で、生息地の観察調査を行った。「これはかなり画期的な調査でした」と宮野さんは言う。
高山の厳しい冬、長い期間を調査したことで、ライチョウの生態の解明が進んだ。これは日本で最初のライチョウ調査であり、この調査から山博は『ライチョウの生活』という本も出版し(現在は絶版)、ライチョウの生態がどのようなものか、一般にも知られるようになった。そしてさらに科学的にライチョウを知るためには飼育も必要だ、ということでこの翌年から飼育が始まった。このように大町山岳博物館は、国内におけるライチョウ調査と飼育の先駆的存在として、その活動を進めていったのである。
さて時代は少し戻るが、大町山岳博物館が生まれた1951年に、宮野さんもこの大町で生まれた。
やがて東京農業大学の畜産科に進学した宮野さんは、「動物学研究室」で野生動物を研究するようになる。そのころ宮野さんが追いかけていた動物は、ライチョウではなく、なんとカモシカ!
「卒論でカモシカのことを書くために、奥多摩の山を駆けずり回っていました」と宮野さん。
そして1975年、大学4年生の時のこと。地元の大町山岳博物館にもカモシカのデータがあるだろう、と大町に帰省したところ、山博で「ライチョウの飼育を手伝ってもらえないかな?」といわれ、夏休みの間ずっと、ライチョウの世話の手伝いをしたのだという。そして、いつのまにか興味がカモシカからライチョウへと移り、やがて山博に就職。以来ずっとこの博物館で学芸員として、ライチョウ飼育の現場に携わってきたのであった。
大学生の時、将来どうするかを真剣に考えていたわけではなかった、という宮野さんだが「ライチョウという不思議な鳥にめぐりあったことが、そのきっかけかな」という。
「高校時代から山に登っていたけれど、2000メートル以上の山に登らなきゃ見えない鳥ですし。粗食に耐えて、よくあんなところで生きていられるなあ、と思っていた。不思議というか、たくましい鳥だな、と」
そしてこう続けた。「でも飼育してみるとまったく、たくましくなくて……、次から次へと不思議なこと、疑問が湧いてくる」
不思議な鳥、ライチョウを低地で飼育するのは、まさに試行錯誤の連続だったのだ。長年、飼育を続けていた山博でも、個体が死に絶えて、しばらく飼育が途絶えた時期もあったという。しかしその間も山博では生息地の現地調査を続けていた。