
取材の日、飯嶋さんはマルシェに参加していた。「せっかくなので、マルシェの様子を見て、楽しんでほしい」という飯嶋さんのブースの横には、なぜか水を張ったたらい桶。なんだろうと見ていたら、飯嶋さんはそこにミニトマトと数匹のアヒルのおもちゃを流し込んだ。
「ミニトマトすくい、です」
そのまま売ってもミニトマトはどんどん売れていくのに、「子ども限定」のミニトマトすくいを催しているのだ。子どもたちが吸い寄せられるように集まってくるのが嬉しそうで、ギフト同様、この人は自分が楽しくてやっているんだなと思った。毎回、かならず「おまけね」と言ってアヒルを入れてあげる笑顔が印象的だった。
それから、飯嶋さんの農園で栽培されているトマトを見せてもらった。
「実はね、もともと花を作っていたんですよ」
こんなにおいしいミニトマトが作れるんだから、この道一筋何十年! かと思っていたのだけれど、実はミニトマトを作り始めたのは数年前。それまでは、ずっと胡蝶蘭を作っていたというのだ。
それが、海外からの安い苗の輸入による不況、栽培していた花を襲った病気で、すべて諦めざるを得なくなった。そして、なんとか野菜の栽培に切り替えた翌年に起きた、東日本大震災。
「収穫した山菜の卸先がなくなって、関西のほうに送ってみたら普段の何倍もの値段で売れてしまった」
東北からの仕入れがなくなったから売れた、自分の野菜。今でも、そのときのお金に手がつけられないんですと、飯嶋さんは苦しそうに話した。
「自分は花栽培ができなくなったときに、本当にたくさんの人に支えてもらいました。震災が起きたときも不安だったけど、それでも周りの人たちがお互いに助け合っているのを見て、人ってすごいなって。『自分も人に愛される仕事をしよう』と思いました」
作り手も、販売するお店の人も、食べてくれるお客さんも、みんなが支え合っている。だから、みんなが笑顔になるために自分は何ができるのか、飯嶋さんは考え続けているのだ。
「ミニトマトすくい、ギフトセット、かわいいパッケージづくり。お客さんが喜ぶ方法を考えるのが、正直ミニトマトつくるのよりも好きですね」
温室のはじっこで聞いた、飯嶋さんの話。ミニトマトを売っているだけでは知らなかった人生がそこにはあって、私は必死でメモをした。その日、私たちは「取材」を通り越して、ずっとずっと話をしていたように思う。
「また、遊びにきてくださいよ。ウィルソンさんに会わせたい人がたくさんいるんです」
帰り道、山梨市駅へ向かう車のなかで飯嶋さんが言った。「また、おいで」と、山梨に呼ばれている気がした。