
とある平日の午前2時半。私は能登半島の中ほど東側に位置する七尾市鵜浦町にある漁港の暗闇に立っていた。
指定された場所に来ているはずだが、周りを見渡しても人の姿は見えない。起きているのは私とフナムシだけではないかと思うほど、静かだ。潮の匂いを運ぶ風が、暗闇を通り過ぎていく。
ここで定置網漁業が行われているはずなのに……そう一抹の不安を覚えたとき、港の横に建てられた小屋に、ぽっと明かりが灯った。「鹿渡島定置(かどしまていち)」と書かれた看板が見える。
「あなた、見学の人ね。 カッパと長靴は持ってきた?」
ゆっくりと穏やかな口調で声をかけてくれたのは、鹿渡島定置の代表であり社長の酒井秀信さん(76歳)。鹿渡島定置では、一般の人も乗船できる体験を行っている。定置網漁の見学のみ3000円、選別と朝食付きは6000円で楽しめる。
続いて船員達が次々と現れ、それぞれ漁に向かうための準備をしている。ただならぬ雰囲気のなか、「はいっ! 実家の母のものを借りてきました。よろしくお願いしまぁす」と腹の奥から声を張り上げた。海の男たちに混じり、気合いをアピールしようという作戦だ。
正直なところ、私は緊張していた。というのも、海に関して何の知識もない。釣りも小学生の頃、林間学校で体験したのみ。自慢できることと言ったら、何でも食せることくらいだ。
今回の最大の目的は、体験後に獲れたての海の幸をいただく朝食だった。ただ食べるだけではなく、漁業過程を学び汗をかきヘトヘトで「もうだめだ。お腹がペコペコ……」の状態で、漁師メシをいただいてみたい。そのため、今日一日は、海の女になろうと決めていた。
これを飲めば酔うことはない、とおすすめされた酔い止めを水で流し込み、船を待つ。
数分後、煌々と光る船が港へ近づいてきた。真っ暗闇の中に浮かぶ船は、どこか神々しい。
ところで、皆さんは定置網漁とはどんなものなのか、ご存じだろうか?
魚の通り道に大きな網を固定し、海の流れに乗ってやってくる魚を静かに迎える漁法だ。潮の流れや季節の変化に合わせて、さまざまな魚がかかる。
待っている間、酒井社長がなぜこんなにも朝が早いかを説明してくれた。定置網漁では、魚市場へ行く時間が早いほど値段が高くなるのだという。
「みんな競い合って早く行く。以前は4時出港だったんですよ。今は2時半集合の3時出港に落ち着いています」
それでも、見学者は国内のみにとどまらず台湾やヨーロッパやからも訪れるというから驚きだ。個人で来る人もいれば、料理関係者やシェフなどが締めの技術を学びにくることもある。
「見学に来てもらうには、朝の早さがネックになるね。でも車で来て車中泊したり、七尾市駅前や和倉温泉に泊まったりしてくる方もいますよ」
私はその日、能登にある実家に泊まり、午前0時半に目覚ましをかけ、午前1時に車へ乗り込んだ。のと里山海道を走り、消えそうな電柱の明かりを頼りに真っ暗な山道を通り、待ち合わせ時間よりもずいぶん早く到着した。そのため、準備はバッチリだ。
さっそく船に乗り込む。船員のひとりが「ここに座っていきな」と、大きな浮子(うきこ)を置いてくれた。顔は強面だが、対応に優しさを感じる。

