さて山のなか、つまり城内に入った。
久米城の縄張り(城の設計)を説明しよう。山田川東岸に位置する久米城は、久米の集落の北側、鹿島神社のある付近を中心として、集落を囲むような北と東の山全体に築かれている。城の規模は南北約700メートル、東西約300メートルだ。山側から攻めてくる敵を想定し、「西の城」と「北の出城」、そして本城がある「東の城」、さらに「南の出城」と呼ばれる4区画のなかに、曲輪(くるわ/土塁、石垣、堀などで周囲を防御した平坦な区画のこと)など、さまざまな防御施設が配置されている。それは複雑な地形を活かして、限られた兵力で最大の防御効果を生み出す、中世の高度な軍事土木技術だったのだ。
まずは曲輪の手前にある急峻な「V字谷」と呼ばれる谷を通り、「西の城」へと向かう。この谷は谷底を水平に削り、高さ8メートルの垂直の崖を二つ設け、敵の侵入を遮断している。手掘りの崖は険しく、読んで字の如くV字形になっているので、容易には侵入できなかっただろう。そして、ここを人力で削ったのかと思うと驚くばかりだ。
西の城は、三つの曲輪からなる。二の曲輪と三の曲輪には、北からの侵入を防ぐ土塁を設け、三の曲輪の西側は高さ70メートルの急斜面が麓まで続いている。つまり天然の要害だ。曲輪の周りには、敵が容易に侵入できないように切岸や堀切(峰の方向に垂直に造る堀のこと)が施されている。
堀切を見ながら、石井さんが解説する。「今は土に埋もれてしまっていますが、当時はもっとカクッと鋭角になっていたはずです。直角に。そうすると本当に登れない。そういう構造です」
石井さんは続ける。「自然の地形を最大限に生かしつつ、この曲輪を段々に並べるだけの単純な構造というのが、中世の初期の形です」