南の出城に至る途中には大きな二重堀切がある。そこを超えてさらに進むと、また堀切がある。そこには堀の散策用橋を作ってかけてある。当時もおそらくここに橋を渡し、戦闘時には敵を遮断するために橋を外せるようにしていたようだ。基礎となる石にその名残がある。


南の出城にたどり着くと、なんと石井さんのお父さん、石井勲さんに遭遇した。久米城を整備する三人のメンバーのうちのひとりだ。85歳を過ぎた今も、週三日はこの山に入っている、というから驚きだ。勲さんはこう続けた。「子供の頃からここを登っていたけれど、その頃は雑木や藪で遺構だけでなく、景色も見えていなかった。でも今は伐採したことによって、南の出城からは日光連山も見える。この山を整備して、城が好きなたくさんの人たちに喜ばれて。これ以上ない幸せ」
石井さんのお父さんと別れてさらに進む。大きな横堀が出現した。横堀とは等高線と平行に斜面を削り込んで作られた堀のことだ。西の城の自然の地形を生かした単純な構造に比べて、南の出城では、時代が下って土木技術が進み、築城の構造が複雑になっているのだという。
この横堀の恐ろしさについて、船木さんがつぶやいた。「ここから見ると横堀に移動させられるように作られていた気がする。攻め手はこの脇道を行くしかないので、自動的に横堀に入る。横堀に入ると上から殺される」この横堀に誘導するような道が作られ、横堀で立ち往生させて上から攻撃する仕組みになっているのだという。
実際に横堀を通ると、かなり高低差があることがわかる。2メートル、いや3メートルはあるだろうか。現在は土砂などが堆積しており「当時はもっと深く、さらに2メートルくらい下に掘られていたのでは」と石井さん。500年経った今でもこれだけの深さがあるのは、いかに大規模な土木工事だったかを物語っている。確かに上から襲撃されたらひとたまりもない……、と怖くなった。なんだか昼でも落武者の幽霊が出てきそうだなあ……と思いながら歩く。


「土橋」と呼ばれるものが現れた。堀などを通行するために造られた土の橋のことだ。土橋を見て、わたしは「完全に橋だ、ここ。すごい! 土橋ってよく言ったものですね」と感嘆した。道のようにも見えるが、やはり堀の上の「橋」なのである。
「そのままズバリ、土の橋ですよね」と石井さんと船木さんも頷いた。


もう一つ大きな二重堀切を過ぎると、地元の人から「山の神」と呼ばれている小さな祠がある場所に辿り着いた。ここが、広大な久米城の南端だ。
「どうも最近お供えしたばかりのようだね」と船木さんと話していると「わたしがやりました」と石井さん。なんと神様へのお供えも久米城跡保存会のみなさんがやっているのである!