
さて、板柳東小学校から北畠家本家に移動する。ここは一般には「古館城址」とよばれ、板柳町の文化財第一号でもある、歴史的な場所だ。この古館城址には、なんと約226年前の家が今もまだ建っている。まさに菅江真澄が逗留した家そのものが残っているというわけだ。
部屋には屋敷を描いた古い絵がかかっていて、現在の屋敷が当時とほぼ変わっていないことがよくわかる。天井も囲炉裏も、当時が偲ばれる古い作りだ。
残念ながら、古館城址の敷地と屋敷内部は一般公開されていないが、公道に面した敷地の一角には案内板が設置されており、誰でも屋敷林を眺めながらその歴史を読むことができる。
実は北畠家の歴史はとても古く、なんと日本の中世、鎌倉時代末期にまで遡る。日本史の教科書にも出てくる、南北朝で後醍醐天皇を支えた公卿であり、武将でもある北畠顕家が先祖だ。当時の東北地方、奥州に下向したこの顕家の子孫が、浪岡(今の青森市浪岡)に入り、浪岡北畠氏となった、と言われている。青森市内には、1940年に青森県初の国の史跡となった「浪岡城址」が現存している。
戦国時代、北畠氏は津軽氏との戦いに敗れ、浪岡城は落城。その後、生き残った北畠家は、浪岡のとなりの板柳へと移り住み、代々この村の庄屋として、また医師としてこの地に暮らしてきたのだという。
本草家(本草学:植物を中心に動物・鉱物などの自然物を研究対象とした、古来の薬物学、医学、博物学のこと)でもあった菅江真澄は、津軽藩の藩医でもあった北畠家の人々と親しく交流し、真澄は長く、この北畠家に逗留した。そのお礼に、薬草として伝えたのが、この「シロバナタンポポ」のいわれだという。しかし真澄はスパイのような存在ではないかと津軽藩から怪しまれ、秋田へと追放されてしまう。
「真澄がうちに滞在した時のお礼としてこのタンポポがある、ということを、先祖は代々大事にしてきたのかなと思うんです。真澄がこの地に来て植えた白いタンポポを、そしてその交流自体を大事に守ってきたんじゃないのかな、って思うんですよね」と清美さんは語った。
清美さんが言うとおり、北畠家では菅江真澄とのつながりを大切にし、約226年もの長きの間、この花を敷地内で守り、育ててきた。そして先祖から渡ったバトンは、いま清美さんが握っているというわけだ。
広い庭には高い木がいくつも植えられ、その木陰にそっと、いくつかのシロバナタンポポの株が点在していた。3、4株くらいだろうか。日の当たる小学校の校庭と違って、木陰のシロバナタンポポは、まだ咲いていなかった。
シロバナタンポポは関東以西、特に中国・四国地方に多く分布する植物であり、青森では自生しない。その証拠に、青森でこの花は、ここ北畠家の敷地内でしか見ることはできなかった。つまり板柳のシロバナタンポポとは、歴史的な貴重な花として伝承され、人々の記憶の中で咲く花だったのである。