


「私の代で、このずっと江戸時代からあったタンポポがなくなるの、嫌だなって、思ったんです」 強い危機感を覚えた清美さん。そこからの行動力は素早く、そして力強かった。
ちょうど青森県西北県民局が主催した「奥津軽わげもの会議」というプロジェクトがあった。それは、県内の地域振興にかかわることで、県民がプレゼンし、採択された人が県から補助金を得るというプログラムだった。清美さんの歴史的なシロバナタンポポを守り育てる、というプレゼンテーションは見事に採択された。そして本格的な保全プロジェクトが始まったのである。
弘前大学の協力のもと、まずは組織培養によって株を増やすことを試みた。3株しか残っていない本家の庭から、危険分散措置として1株を弘前大学が預かることになった。本当に残したいのであれば、もう科学の力に頼るほかない、というところまできていたのだ。
弘前大学の勝川健三教授の研究で、これまで何も分からなかったシロバナタンポポの科学的なことも、だんだんわかってきた。
なぜ、武基さんが長い間、種を採取して保全に取り組んできたにも関わらず、シロバナタンポポが一向に増えなかったのか、その謎も解けた。北畠家のシロバナタンポポは長い間に生育環境が悪化し、個体が老化、衰弱していたのだという。種を作ることはできても、種が発芽する力が衰えていたのだ。
幸い、組織培養によって株が増え、さらに花が咲いて種も取れるようになり、今では種からの発芽も増えた。プロジェクトが発足してから5年たった現在では、なんと200株まで増えているという。プロジェクトが始まって最初の年は、1株にまで減ってしまっていたので「ハラハラしていました」という清美さん。まさにそこからの大逆転劇だった。しかも強くなったシロバナタンポポの株は、10月にも花が咲くことがわかり、今では一年に2回、花を見られるようになったのだ。
さらに最初に訪れた板柳東小学校の校長が清美さんの活動に共感し、協力を申し出でた。「生ける文化財」の保護観察活動を授業の一環に組み込み、小学校での植え付け、観察を提案してくれたのである。「校長先生のプロジェクトに対する理解が、本当にありがたかったです」と清美さん。
「このような歴史的な植物があることを、この地域で育つ子どもたちに伝えていきたい」というのが板柳東小学校の方針だ。そして小学生たちは日々、観察記録を続けている。ちなみに小学生たちの観察日記は、清美さんが作った菅江真澄のイラストつきだ。
その菅江真澄が約226年前に持ってきたシロバナタンポポは、いまや板柳の北畠家の屋敷を離れ、小学校などの教育現場で、増えているのである。こんなことになるとは、亡き武基さんも天国で驚いているかもしれない。
蘇ったシロバナタンポポは再び、青森の人々に知られるようになった。面白いことに、数十年前に武基さんを取材した人たちが、また清美さんに取材に来ることもあった、と清美さんはにっこりする。
「清美がタンポポ好きになったのは、隔世遺伝かな」と千春さんは言った。