李参平窯から車で1分、街の大通りからちょっとだけ入ったところに車を止める。そこは稗古場という地区だ。有田の中でも最も古い窯跡の一つ、「稗古場の窯跡」があり、その上の小さな丘が「観音山」なのだ。稗古場の窯跡は、よく見ると400年前からある、古い古い陶片や窯の壁跡が苔に埋もれて、ひっそりと佇んでいた。省平さんが土に埋もれた、それらを指差しては、ほら、これはとても古いものだよ、と言って一つ一つ教えてくれる。
一通り窯を見てから、観音山を登る。山を登ると言っても、稗古場の窯跡から山頂までは1分ほどだ。本当に小さな丘なのだ。
山頂に着くと、深江さんが、ああー、子供の頃に遠足で来たなあ、とつぶやいている。
遠足? ここは小さな祠と幾つかの仏像が祀ってあるだけで、取り立てて、何があるわけではない。しかも結構な勢いで木が茂っており、木々の間から、有田の町が見え、そしてこの町をぐるりと取り囲む山々が見えるだけだ。それでも、ここを小学生の遠足の場所に選ぶということは、やはり町では、次世代にも李参平たちの歴史をきちんと伝えていこう、という考えがあるのだなあ、と私は思った。
九州の冬は日が長い。私の住む町、水戸に比べたら、50分は日の入りが遅いだろう。今頃、水戸ではとっくに日が沈んでいるだろうけれども、5時過ぎても観音山はまだ十分に明るかった。春が近づいてきたことを思わせる暖かな夕日に、省平さんはまぶしそうに目を細めていた。私は観音山に月を見に登ったご先祖様の思い出話などは金ヶ江家に伝わっているのですか、と尋ねると、省平さんはいいや、とを首を横に振った。もう400年も前の話だからね、そんな話は伝わっていないんだよ、と。
もしかしたら韓国の陶工たちは、この有田で日本人として生き抜くために、辛い思い出は子供達には伝えずに、自分たちの心の中だけにしまっておいたのかもしれないなあ、と私はなんとなく思った。
帰ってから佐々木さんに、メールで今日の出来事を伝えると、「あー、いいなあ、僕も14代と一緒に観音山を登ってみたかった!」という羨ましそうな返事が返ってきた。佐々木さんは別の用事があって、今日の私のリサーチに同行できなかったのである。
それは、そうだろう! 私だって、400年前の歴史上の有名な人物が歩いたかもしれない道を、その直系の子孫と歩くなんて、初めての経験だったんだから。

松本美枝子