未知の細道
未知なる人やスポットを訪ね、見て、聞いて、体感する日本再発見の旅コラム。
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日本で唯一の「揚げ浜式」塩田を訪ねて 能登はやさしや、塩までも

文= きえフェルナンデス
写真= きえフェルナンデス
未知の細道 No.312 |10 September 2026
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#6500年、変わらない理由

揚げ浜式製塩の歴史は、豊臣秀吉が政権を握っていたころまで遡る。

1596年ごろ、能登地方で始まったとされる。

瀬戸内などでは、潮の満ち引きを利用して海水を塩田へ引き込む方法が広がった。一方、能登の海岸は潮の干満差が小さく、平地が少ない。そこで人々は、海水を人の手で汲み、砂にまき、太陽と風で乾かす方法を選んだ。

それが、「揚げ浜式」だった。

江戸時代には、加賀藩の「塩手米(しおてまい)」という制度によって、「揚げ浜式」塩作りが大きく発展した。

当時の能登は、田畑が少なく稲作に向かない土地だった。そこで藩は、塩を作る農民に、まず米を貸し与え、秋になると借した米の代わりに塩を納めさせた。塩作りは農民を支える生業となり、藩にとっても重要な財源となった。

砂浜と薪に恵まれた珠洲は、なかでも塩作りが盛んな地域として栄えていった。

しかし明治以降、効率のよい工業的な製塩が広がると、昔ながらの塩田は次々と姿を消していく。1959年の法制度によって、揚げ浜式製塩は珠洲市と輪島市の3軒にまで絞られ、やがてそのうち2軒も廃業した。 最後まで残ったのが、珠洲市清水町の角花(かくはな)家だった。江戸時代から続く塩づくりを、一軒だけで守り続けてきた家だ。

その技術を絶やさないため、1995年、「奥能登塩田村管理組合」が発足した。その2年後、塩の専売制度が廃止され、能登各地でも塩田が復活。2006年には「道の駅すず塩田村」として道の駅の認定を受けた。

塩作りはすべて手作業で行われている

いま、ここで作られている塩は、単なる昔ながらの特産品ではない。

海と風と太陽。そして、それを扱う人の技術。そのすべてが重なって、ようやく一粒の塩になる。500年、なにひとつ欠けることなく、繋いできた営みの結晶なのだ。

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未知の細道とは

「未知の細道」は、未知なるスポットを訪ねて、見て、聞いて、体感して毎月定期的に紹介する旅のレポートです。
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