
揚げ浜式製塩の歴史は、豊臣秀吉が政権を握っていたころまで遡る。
1596年ごろ、能登地方で始まったとされる。
瀬戸内などでは、潮の満ち引きを利用して海水を塩田へ引き込む方法が広がった。一方、能登の海岸は潮の干満差が小さく、平地が少ない。そこで人々は、海水を人の手で汲み、砂にまき、太陽と風で乾かす方法を選んだ。
それが、「揚げ浜式」だった。
江戸時代には、加賀藩の「塩手米(しおてまい)」という制度によって、「揚げ浜式」塩作りが大きく発展した。
当時の能登は、田畑が少なく稲作に向かない土地だった。そこで藩は、塩を作る農民に、まず米を貸し与え、秋になると借した米の代わりに塩を納めさせた。塩作りは農民を支える生業となり、藩にとっても重要な財源となった。
砂浜と薪に恵まれた珠洲は、なかでも塩作りが盛んな地域として栄えていった。
しかし明治以降、効率のよい工業的な製塩が広がると、昔ながらの塩田は次々と姿を消していく。1959年の法制度によって、揚げ浜式製塩は珠洲市と輪島市の3軒にまで絞られ、やがてそのうち2軒も廃業した。 最後まで残ったのが、珠洲市清水町の角花(かくはな)家だった。江戸時代から続く塩づくりを、一軒だけで守り続けてきた家だ。
その技術を絶やさないため、1995年、「奥能登塩田村管理組合」が発足した。その2年後、塩の専売制度が廃止され、能登各地でも塩田が復活。2006年には「道の駅すず塩田村」として道の駅の認定を受けた。
いま、ここで作られている塩は、単なる昔ながらの特産品ではない。
海と風と太陽。そして、それを扱う人の技術。そのすべてが重なって、ようやく一粒の塩になる。500年、なにひとつ欠けることなく、繋いできた営みの結晶なのだ。