そうこうするうちに、あの震災がやってきた。
その前年には車を借りて宮古まで行ったのだが、あの美しく賑わっていた海辺が津波にのまれたのだということが、よく想像できなかった。
震災後の初めての夏。初日の授業の直前に、盛岡駅からタクシーに乗って大学に向かった。街の様子はどうですかと尋ねると、タクシーの運転士さんは「沿岸地域から盛岡まではだいぶ距離があるからね、盛岡の街は地震前とそんなには変わってないのですよ」と教えてくれた。1年ぶりに聴く盛岡の訛りは懐かしく、そう思う自分が、なんだか啄木の停車場の歌みたいだな、と思った。
しかし街はやはりどことなく変わっていた。地震被害の影響で潰れたお店もあった。沿岸地域から盛岡に避難している人も多いと聞く。そして学内には安否確認、ボランティア、学費の支援など震災に関するさまざまな張り紙が貼られていた。学生との授業の中でも、発言の端々から、彼らの生活に震災の影が響いていることを感じるのだった。
「時間があるなら沿岸のボランティアに行ってきたら」と美術のW先生が勧めてくれたが、そんな力も湧かずに、その年の滞在は過ぎた。自分でも震災のショックが大きすぎて、あの頃はまだ、まったく消化できていなかったのだと思う。
岩手大学の学生の中にも、津波に巻き込まれて亡くなった人がいるということだった。