
フェスティバルの準備から当日まで、あちらこちらに動き回る空色のTシャツを着た青年たち。
誰かが指示しているわけでもないのに、必要な場所には彼・彼女らがいて、流れが滞らない。
この人たちは、いったいどういう集団なのだろう?
その答えを知りたくて、フェスティバルの後日、私は実行委員長の五十嵐政治さんと広報部の富塚健さんを訪ねた。
山形商工会議所青年部、通称・山形YEG(Young Entrepreneurs Group)。
青年部のなかには委員会が4つあって、そのひとつが"日本一の芋煮会フェスティバル実行委員会"。会員およそ100名の青年部のメンバーの半数近くがこの委員会に所属しているという。
実行委員会の内部には、調理部会・会場部会・広報部会・茶屋部会・渉外部会など、7つの部会がある。
食材の管理と大鍋の仕込み、会場の導線設計や仮設橋の設営、SNS発信とポスター配布、大鍋の対岸に設けられた「芋煮茶屋」来場者の接客と調理、協賛金の管理と調整…….。それぞれの部会はすべてを青年部によって運営されていて、イベント会社に委託はしていないそうだ。
しかも驚くべきことに、彼らは無給のボランティア。それどころか、商工会議所の年会費を支払い、自身の会社からも協賛金を出して活動しているという。まさに「持ち出し」で、この巨大イベントを支えているのだ。
それぞれに日々の仕事があるなかで、年に一度のイベントのために、これだけのことを自分たちで???
「日本一の芋煮会フェスティバル」は、 1989年(平成元年)、この山形YEGが中心となり始まったイベントだ。
「山形の秋の風物詩・芋煮会を全国に発信しよう」「どうせやるなら世界一大きい鍋を!」という発想から、直径5.6メートルの初代鍋太郎が、山形の地場産業である山形鋳物の技術を駆使して作られた。
「最初の鍋は、なんとヘリコプターで運ばれたんですよね」と五十嵐さんは語り継がれる当時を振り返る。
行政・民間の協力を得て、大鍋はヘリで吊り下げられながら、馬見ヶ崎川の上空までゆっくりと空を飛んだ。
「今じゃ絶対に許可が下りませんよ、当時のメンバーはかなり"イケイケ"だったんでしょうね」
そこから35年以上が過ぎ、鍋は三代目となり、青年部のメンバーも入れ替わった。けれど、話を聞いていると、武勇伝として語られる"熱い"精神は、いまも確かに息づいているのではないかと感じる。
今年のフェスティバルでは、空色のTシャツの背中に「芋煮やろうぜ!」のスローガンが躍っていた。これは、単に芋煮を「食べよう」という誘いではない。「準備から本番まで、運営も参加者も一体となって祭り全体を『やろう』」。そんな想いが込められている。
形は変わっても、"やってみよう"の心は同じ。それが、35年経っても変わらずこのフェスティバルを支えている。