
2024年の能登半島地震のあと、塩田村は存続の危機に直面した。
塩田村の従業員のほとんどは、震災後20日以上、道路の寸断などにより孤立していた。浜士の浦さんも同様で、しばらく経ってから富山に避難した。30人いた従業員で動けたのはわずか3人。地震の影響で電気も水道も止まった。明日、どう暮らしていくかも見えない。浦さん自身、「どうすべきか迷っていた」という。
「前の会社から連絡が来て、同級生もそこにおるもんで、もう諦めてうちに戻って来いって言われとったんです。そっちのほうが生活を立て直すのに、早いといえば早いから」
浦さんは、迷った。背中を押したのは先代の言葉だった。
<次はお前たちの番やぞ、頼むぞ>
震災からおよそ4カ月後の4月22日、例年に遅れることなく塩作りが再開された。そこには浜士・浦さんの姿もあった。
「戻ってきたスタッフはみんな、先代の言葉を思い出していたと思います」と、誘客主任の中野さんもいう。
そしてもうひとり、大きかったのが社長の存在だ。社長の石田尚史さんに、辞めようとは思わなかったのですかと質問すると、「なかった」と即答した。
「辞めるのは簡単ですよ。楽になりますよ。でも、先人たちが苦労して守ってきた500年の伝統を、簡単に放棄することはできない。この歴史を受け継ぐ仕事に携われてありがたいですし、戻ってきてくれたみんなも、そういう誇りがあるんじゃないかなと思います」
この日、石田社長は花笠をかぶり、砂をかき集め運ぶ「浜取り」として働いていた。天日で乾かした砂を集め、かん水を取り出す垂舟まで運ぶ、汗だくの力仕事だ。
「僕は浜取りとしては、素人です」そう笑う。
塩田での浜取りは、現在ボランティアも含め、13人。30年にわたって浜取りをしているベテランの「お母さん」もいれば、災害後に千葉から移住した20代の女性もいる。
2024年9月には、能登半島豪雨が塩田村を襲った。
釜屋のなかまで泥水が流れ込み、塩田は腰の高さまで埋まった。それを学生ボランティアたちが掘り起こしてくれた。再起不能かと思われた塩田は、いまでは驚くほどきれいになっている。大きなことを語るわけでもない。淡々と起きたことを受け止め、いま自分でできることをする。それが、ここで働く人たちの姿だった。
この「人」の存在が、浜士を続ける浦さんの活力になっているという。
「人が、こんなひどい道のなか、来てくれて。こんだけ応援してくれるというのは、すごいなと思います。いまも、移住者の方たちが手伝ってくれるから、助かっとる。こんな状態でよう手伝いに来てくれるなと思う」
塩を作りだすのは、海だけではない。人もまた、この塩を守っている。