Silkroad Bakery SHERをオープンした頃、営業日の早朝から中央アジア人の学生たちが店の前に待っていることが多かったとシェルさんが振り返る。
「夜勤明けや学校が休みの学生が、何十人も家の前で待っていて。みんなで寒いなかでサムサを食べて帰っていく。『これを食べるために昨日から何も食べずに来たんだ』とか言われると、嬉しいですよね。今は、この仕事が好きだと言えます」
毎週やってくる彼らにどこから来ているのかを聞くと、そのほとんどが新宿や高田馬場など都内の学校に通う学生だったという。
どうか都内でも食べられる店を出してくれないか。彼らのそんな声がきっかけとなり、ふたりは2019年2月、高田馬場に中央アジア料理レストラン『VATANIM』をオープンした。10人ほどが入る店には、毎日多くの中央アジア人や日本人が訪れる。
ノン作り、全国への発送、ベーカリーの営業、イベント出店、そしてレストランのオープン。夫婦ふたりとは思えない活動量に、聞いているだけで目が回った。
「まだまだ、始まったばかりです。もっとやりたいことがたくさんあります」
そう話すシェルさんが目指すのは、中央アジアをもっと日本人にとって身近な場所にすることだ。
「例えばトルコのケバブも、インドのナンも、数年前まで日本人が知らないものだった。それが今では名前を言えばわかるようになり、冷凍で売られるほど一般的になりました。ノンを始めとした中央アジアの料理も、そのくらい知られてほしい。日本人や、日本で暮らす自分の子どもたちに、その存在を知ってほしいんです」
日曜日の朝、子どもたちが見つめる先には、ノンを焼き上げるシェルさんやサムサを包む香織さんがいる。「継がなくてもいいから、覚えておいて」。そう言ったシェルさんのお父さんも、今のシェルさんと同じ気持ちだったのかもしれない。
この日も、朝のパンづくりを終えたシェルさんは、焼きたてのノンやサムサを車に乗せてレストランへ。香織さんは残りのパンを作りながら、ベーカリーでパンを売る。
彼らが生地を練って窯で焼き上げるのは、ただのおいしいパンではない。中央アジアという地域と、私たちをぐっと近づけるものだ。持ち帰ったノンを食べながら、まだ訪れたことのない中央アジアを思い描く。次に漫画『乙嫁語り』を読むときには、以前よりももっと鮮明に彼らの暮らしを想像できるような気がした。