福島県南相馬市
2011年3月13日、私は友人から借りた車で東京から宮城県北にある実家を目指していた。あれからもうすぐ10年が経つ。この10年の間、いくつかの東北の街に「編集者・ライター」というなけなしの職能を携えて足を運んできた。いま、数ヶ月に1度向かうのは福島県南相馬市。土地の応援団の一員になるってどういうことだろう? その問いを胸に抱きながら続く、たぶん終わることのない風の編集者の旅の現在地を書き記しておきたい。
最寄りのICから【E6】常磐自動車道「南相馬IC」を下車
最寄りのICから【E6】常磐自動車道「南相馬IC」を下車
2歳から18歳で高校を卒業するまで暮らした宮城県の里山が、わたしのふるさとだ。その後の大学時代は都会で暮らし、新卒で入った出版社では営業で全国各地を回っていたから、わたしの定住記録は、幼少期の16年が最長だ。
営業でさまざまな場所に派遣されるときも、その赴任地が東北地方だとなんだか安心した。両親が宮城出身なわけではないから、私は方言を上手に操れないけれど、私にとっての「ふるさとのなまり」は少しくぐもった東北の言葉なのだ。
2011年3月11日、わたしは東京都港区赤坂の小さなビルの3階にいた。震度5までの地震は経験したことがあったが、明らかにその比ではない揺れで、棚のガラスは割れて机のものはことごとく落ちた。こういうときにまず一番に浮かぶのは、いつも母の顔だ。「震源は宮城県沖」その言葉を聞いてどばっと涙が溢れた。
山側に住んでいたので幸い津波の心配はなかったが、母は1人暮らし。3月13日、友人に車を借り、弟と2人実家に向かって車を走らせた。そのときは原発の状態が不明確だったので福島を避けて、山形へ迂回。途中雪用のタイヤチェーンをつけ、翌日の早朝に宮城県に到着。停電でつかない信号機を見たのは、後にも先にもこのときだけだ。みんなが譲り合って車が往来していた。
到着した家で再会した母は元気そうに見えたが、家の片付けがたたったのか翌日には身動きが一切取れないほどのぎっくり腰に。私は看病のためにしばらく実家に滞在することになった。そして図らずも東北の地で震災のニュースを聞きながら数週間を過ごすことになった。