
ーーまず、UFOに興味のある人を集めました。月会費500円で12人。20代から30代の若者たちです。その名も「羽咋ミステリークラブ」。
町おこしするにも手元にあるのは、その古文書のコピーだけ。これだけじゃダメだなと思い、ふとメンバーを見たら、うどん屋の宮崎がいた。
「お前のところ、うどん屋だろ? UFOうどん作ってくれないか」と頼みました。ところが彼の父親は猛反対。「末代の恥になるからやめとけ」と言われてしまった。
困りました。というのも、すでに週刊プレイボーイに情報を流してしまい、記者が来ることになっていたからです。宮崎に「いつ来るんだ?」と聞かれ、この日だと答えると、「その日なら親父は組合の会合で留守だ」と分かり、そこで決行しました。
三角の油揚げにナルト、貝割れ大根を渦巻き状にして、ワカメと生卵を添える。
「月夜の晩、草むらにUFOが着陸してる姿です。名付けて“元祖UFOうどん”!」
強面の記者に、そう説明しました。記者がこのうどんを見た瞬間、目を閉じたんです。僕は汗だくになりました。「ふざけんじゃねえ」って、テーブルをひっくり返されて帰られるかもしれない、と。けど、パッと目を開けて、彼が言ったんです。
「面白いじゃない」
6ページの特集になりました。「能登半島にUFOの基地ができた」って。実際あるのは、まだUFOうどんだけなのに(笑)。
ハッタリ? そうですよ。僕の思考方法は、失敗したらどうしようとは考えない。万が一、成功したらどうしよう、黒字になったらどうしようって考えます。そうするとワクワクが止まらなくなる。これを持続させるんです。
次に考えたのは、「UFOの国際会議ができたらどうしよう」でした。もうワクワクが止まらないんですよ。
実際、1990年11月17日に「第1回 宇宙とUFO国際シンポジウム」が開催されることになりました。資金集めのため、8人で上京し企業を回りましたが、紙切れ1枚の企画書では門前払い。大手食品会社の広報部長に叱られながら本格的な企画書を学び、作り直したところ、3カ月で4000万円の協賛金を集めることができました。シンポジウムでは約2万人の羽咋市に、4万5000人以上が集まったんです。
「親父」であるコールマン大佐も招待し、元国連広報担当官としてスピーチしてもらいました。
国際シンポジウムの大成功をきっかけに、「UFOの町」の拠点になるような施設が欲しいという話が出ました。当時、自治省(現・総務省)が「リーディングプロジェクト」という制度を設けていて、先導性のある事業には国が予算の9割を負担してくれる仕組みでした。そこで僕は提案したんです。
その名もーー「宇宙の出島、能登羽咋プロジェクト」。
江戸時代、長崎の出島が西洋文化の玄関口だったように、もしUFOという現代の“黒船”が来るなら、日本にも宇宙への窓口があってもいいじゃないか。そう思ったんです。
すると、自治省の職員が食いつきました。「面白いじゃないですか」と言ってくれて、総額52億6000万円のうち、国が90%を出してくれることになった。つまり、市の負担は5億2600万円。これで博物館が建てられる。
しかし問題がありました。
予算の大半が図書館や大ホールに消え、宇宙展示に使えるのはたった2億5000万円。予算がないので業者の提案は、惑星の模型ばかりでした。だから僕は、提案したんです。
「これ、本物の宇宙船とかロケットに代えることはできませんか」と。
鼻で笑われました。それで僕は、市長に直談判しに行きました。
「僕が交渉してくるから、3カ月間だけアメリカに行かせてください。その間に取りまとめてきます」