いよいよ、「大雄院製錬所」と呼ばれた場所の真下までやってきた。この製錬所は明治期に操業が始まった。日立鉱山が閉山された今も、大正時代に建てられた製錬所の大煙突が現役で稼働し、レアメタルを製錬しているという。そしてこの大煙突は鉱業と工業の街、日立のシンボルとして町の人々に親しまれ続けている。
そして、ここが鉱山電車の終点「大雄院停留所」の跡だ。今日の私たちのファイナルディスティネーションでもある。今は日立鉱山の後継会社の駐車場となっている。ちなみに人を乗せた鉄道としてはここが終点だが、鉱石を運ぶ線路は製錬所の中に向かって、さらに延びていた。だが、それが今どうなっているかは、一般の人は知る由もない。
いずれにしろ私たちは助川停留所と荷扱所があった日立駅前から、約6キロ弱の線路を、ここまで足で歩いてきたのだった。正木さんが丹念に作った線路跡地図と古写真を、実際の風景を見比べながら、田切先生の記憶も頼りに推測してきた今日の道のりは、実に6時間以上が経過していた。
田切先生にいつ頃まで鉱山電車に乗っていたのかと尋ねると、「中学生までですね」と答えた。 田切先生が生まれ育った日立鉱山の本山地区は製錬所より、さらに山奥にあった。ここまで徒歩で降りて、それからやっと鉱山電車に乗って街に降りたのか! と思うと、地質学者の田切先生が80歳を過ぎてもなお、山の中を縦横無尽にフィールドワークできるその原動力がわかる気がしたのであった。