
今でこそ子どもたちを温かく見守る色部さんも、かつてはボールを追いかけるスポーツ少年だった。山形市で生まれ育ち、中学では野球、高校ではバレーボールに没頭。全国大会に出場した経験を持つ。
「最終セット、13-13の接戦でピンチサーバーとして出たんですけどね……逆にピンチを招きました」。そう笑う姿に、チームメイトに愛され、いじられたであろう青春の日々が透けて見える。
「誰かができるようになる瞬間を見るのが、自分のこと以上に嬉しいんです」
自己分析から、誰かの発見や感動に立ち会える職業を見据え、山形大学教育学部・中学校英語科へ進学した。
でも、人生は真っ直ぐには進まない。大学時代、南カリフォルニア大学やワシントン大学へ「遊学」した色部さんは気づいてしまった。「あれ、自分は英語は好きだけど、難しい英語は嫌いだぞ」。
中学校の英語教師を目指して進学したにもかかわらず、卒論のテーマは「小学校における英語教育」。そのまま自分の「好き」に正直に、小学校の教員の道を選んだ。
「中学英語を勉強していたのに、小学校の先生になれるんですか?」そう尋ねると、色部さんは顔をくしゃっと崩した。「国社算理音図体は全部苦手で、得意教科は給食だけ。がむしゃらに子どもの遊び相手をしていました」
その「がむしゃら」ぶりが、私の想像をはるかに超えていた。
放課後の職員室で子どもたちにカップラーメンをふるまい、テーブルで卓球大会を開く。夏はプールにボートを浮かべてラーメンを食べ、冬のスキー合宿では、夜中の3時に子どもたちを起こしてそり滑りに連れ出したという。私も小学校時代には蔵王にスキー合宿に行ったが、思い出は窓枠に置いたミカンが朝には冷凍ミカンになっていたことぐらい。夜中のアドベンチャーには、さすがに連れて行ってもらえなかったなぁ。
「今だったら全部アウトですね。時代が違いましたから」と色部さんは笑う。
当時の教育現場には、今よりもっと自由な空気があったのだろう。子どもたちにとって、「夢中で自分たちと楽しんでいた」色部先生との思い出は、きっと一生色あせない。実際、当時の生徒たちが家族を連れてコパルを訪ねてくるのだが、それはもう少し先の話だ。
ちなみに、小学校での英語教育は2020年に必修化されたが、色部さんは教員になったばかりのころ、休み時間や放課後を使って希望者に英語を教えていたそうだ。「先輩から『それよりも国語と算数をちゃんと教えなさい!』と言われて諦めちゃったんですけど、必修化の話がでたときに『なんだず、おれ40年前にもう始めたぞ』って思いましたね」。
既成の枠にとらわれない色部さんの姿勢は、その後の人生にも続いていく。