
茨城県日立市
工業都市・日立。かつてこの街には「日立鉱山」と呼ばれる銅山と銅の製錬所があり、銅鉱石を運ぶための「日立鉱山専用電気鉄道」が運行していた。山の中の製錬所とふもとの街をつなぐ全長5.4キロメートル、「鉱山電車」と呼ばれたこの電車が運んだのは、銅だけではない。なんと人々が無賃で乗車できたという。鉱山電車はしかし、1960年に廃線となり、今では当時の面影を偲ぶものはほとんどない。鉱山電車が走っていた当時、街はどのようだったのだろう。記録写真、証言、そしてごくわずかに残された遺構をたどりながら、鉱山電車の軌道を歩いてみた。
最寄りのICから【E6】常磐自動車道「日立中央IC」を下車
最寄りのICから【E6】常磐自動車道「日立中央IC」を下車
かつて日立の町には「日立鉱山専用電気鉄道」という軽便鉄道があった。日本三大銅山のひとつであった日立鉱山と現在の日立駅までを繋ぎ、鉱石と人々を運んだこの鉄道の歴史は古く、1908年に開通。街の人々からは鉱山電車と呼ばれた。時代と共に輸送手段の主役は鉄道からトラックに代わり、1960年に鉱山電車は廃止となった。その軌道がすべて撤去されて久しい。いまは鉱山電車が走っていたことがわかる遺構もほぼ残っていない。鉱山電車に乗ったことがある人々も高齢になり、その存在を知る人も少なくなっている。
この鉱山電車の軌道を独自に調査している人が日立にいる。その人、正木良三さんは広島県出身。日立製作所に勤務し、日立に住むようになった。退職後は「ジオネット日立」という地質学の同好会に入り、日立の自然科学や歴史を長年学んできた。ジオネット日立の現地研修がきっかけで鉱山電車の歴史を知り、興味を持つようになった。現在は鉱山電車の軌道跡を、航空写真や地域に残る文献や写真、地域の人々の記憶をもとに独自に解析、ビデオを作るなどして、鉱山電車の思い出を地域の人たちにシェアする活動を続けている。


正木さんの線路跡の推定方法はこうだ。資料として国土地理院地図と、国土地理院の1946年と1961年の空中写真を利用。まず地図に道路、建物は緑、川は青というように照合マーカーをつける。正木さんによれば「古く細い道路は移動することなく、そのまま残っていることが多く、位置特定に有効なのです」とのこと。
さらに照合マーカーにより空中写真を地図と合わせていく。このとき「縦横比を変更しないことが重要です」と正木さん。なぜなら空中写真は航空機からの撮影場所が異なるので、建物や山地などの高低差で位置の誤差が大きくなるからだ。
これらに注意しながら、空中写真に写っている線路跡と鉱山電車の停留所を追記し、最後に照合マーカと空中写真を削除して、現在の地図上に線路跡を浮かび上がらせる。さらに実際のルートを自身の足で歩き、空中写真だけでなく地元に残る鉱山電車を移した風景写真と、実際の風景を比較し、より詳細に軌道跡を特定する試みを続けてきた。
今はもうない電車を想像しながら線路跡を歩くことで、何か見えてくるものがあるかもしれない。今回は正木さんと共に、ジオネット日立の田上正敏さんら3名のほか、日立でまちづくりに関わるみなさんにも参加してもらい、鉱山電車の起点から終点までを一日かけて歩くことにした。
今回はもう一人、鉱山電車における重要人物も一緒だ。ジオネット日立の顧問で、地質学者の田切美智雄さん(未知の細道 No.61 )である。日立鉱山で生まれ育ち、地質学者になった田切先生は、この中で唯一、実際に鉱山電車に乗ったことがある人であり、正木さんに鉱山電車の歴史を教えた人なのだ。