
ここで私を待っていたのが、町役場OBの荒井正治さんだ。
荒井さんを含め、当時の町の人たちは、山岡草のことを「変わった人が山奥に住み着いて人形を作り、その写真を撮ったりしている」こと以外、ほとんど知らなかったという。ところが1995年10月10日のこと。読売新聞に、漫画家・水木しげるのコラムが載っていた。「ある不思議な人形作家の死」として、水木がしげるが出会った人形作家について、自然にインスピレーションを得たその造形力に驚いたことや、その作家とのやりとりを続けたこと、その人形作家の生きざまなどが書かれていた。
「これはあの山奥に住んでいた人のことなのでは……」。当時の同僚のひとりが、その死と、そして作品に気づいたのだった。それは国民的な漫画家のひとり、水木しげるの文によって、「人形作家・山岡草」が、大子町に再発見された瞬間といえるのかもしれない。
山岡草に改めて興味を持った大子町役場だったが、作品はすでに山岡の作品を評価する芸術家や評論家などのもとに離散したあとだった。大子町が遺族にコンタクトをとると、遺族からは「山岡はひとつひとつの作品を我が子のように思って手元に置いていた。故人の意思を汲んで、作品がちりぢりにならないように大子町にすべてを寄贈したい、作品を集めてほしい」と申し出があった。町は山岡の遺志を汲み、これらの作品を守ることに決めた。その後、荒井さんたちが担当となり、東京の関係者を訪ねて周り、その結果、大子町にはほぼすべての人形、約600体が戻ってきた。
しばらくの間、人形は公民館に保管されていたが、茶の里公園にあったお茶の資料館を「和紙人形美術館 山岡草常設館」としてリニューアルし、写真集も制作することになったのが6年後の2001年のことだ。
その後、山岡が故郷の和歌山で10代の頃から華道を学び、戦後は華道の師範として活躍して多くの弟子がいたこと、やがて花と人形を組み合わせた独創的な作品をつくるようになったこと、しかし人形づくりに専念するために1975年に上京し、「倭紙芸鄙美式人形宗家」という独自の創作活動を行なっていたことなどが、作品の調査とともに判っていったのである。
そこであの写真の異常なクオリティの謎が解けた。さりげなく、しかし見事に置かれた花も、美しい文字も手作りの小物も、ロケハンも、すべてのアートディレクションを華道のお師匠さんであり人形作家でもあった山岡本人がして、さらにカメラマンまでこなしていたわけだ。なにより、山奥でひとり、自然と向き合い暮らしていた山岡だ。人形たちを遊ばせるロケーションを選び抜くこと、それはつまり山での生活とその芸術が直結していた、ということなのだろう。