
それにしても、実際の山岡草は、一体どんな人だったのだろうか。謎は深まる。死後、30年が経ってしまったが、この町で親しく交流した人は本当にいないのだろうか。
「もしかしたらKさんなら、なにかわかるかもしれない」と田那辺さん。Kさんとは、写真の仕事をしながら、まちづくりのNPOも運営している、いわば大子町の顔役のような人だ。山岡草は写真撮影を非常に熱心にやっていたわけだし、町に詳しいKさんなら、なにかしら手がかかりを知っているかもしれない。
さっそく田那辺さんがKさんにメッセージを送ってくれた。その返信を待ちながら、山岡草が実際に住んでいた場所に行ってみることにした。
和紙人形美術館から車で10分ほどの、大子町山田地区。青々とした水田が広がり、清流が流れ、山並みが続き、まるで昔話のような景色だ。ぽつりぽつりと人家があるものの、人影はほとんど見当たらない。車がかろうじて通行できる細い道を進んでいくと、その先には藪と廃屋しかない。田那辺さんが車を停めた先に草が生い茂った小さな空き地があった。「ここが山岡草が住みついた家があったと思われる場所です」。古い茅葺の家だったという。
人里からはだいぶ離れており、ほとんど人に会うことはなかったのではないだろうか。家が跡形もないこともあいまって、あまりにも寂しい場所に感じられた。
「山岡草がここに住むきっかけになった『鷺の巣』というバス停も探してみましょう」と田那辺さん。もと来た道を引き返し、車をしばらく走らせると青々とした稲が揺れる景色のなかに、そのバス停はあった。山岡の家の跡地からは、かなり距離があった。
山岡が大子に住むきっかけは、20冊残されている手記の最初に書かれている。 他県から茨城へと向かう乗合バスで当て所もなく旅していた山岡は、大子の里山の景色があまりにも美しく、すっかり気に入ってしまった。さらに「鷺の巣」というバス停の言葉の響きに惹かれ、バスを降りた。すると実際に山へ向かって飛んでいく白鷺を目にする。そのあとを追って山に分入り、そこで子どもの頃から見ていた夢とそっくりな農家を見つけた、と記されている。すっかり気に入ったこの家を借りて住むようになったそうだ。
担当していた当時、手記の抜き書きをしていた田那辺さん。「メルヘンみたいな話ですよね」と私に言う。ほんとうにそうだ。山岡はまさに物語を生きていたのかもしれない。
そんなことを考えていると、「あ! Kさんから連絡が来た」と田那辺さん。
メッセージを開くと、その返事は驚くべきものだった。Kさんは20代の頃、少しだけ山岡と話したこともあるし、なによりも、山岡と仲が良かった町の人を知っているという。
その人は、マスコミ嫌いだった山岡の遺志を汲んで、自分の名前や写真は公表したくないが、山岡の思い出話をすることはできる、という。次の日の朝、Kさんと一緒に、さっそくその人から話を聞くことにした。