ロジャーさんは大学院を終えた1998年、日本に帰国。当時、日本のアート市場は国内では成長していたものの国際的な評価にはつながらず、ガラパゴス化していた。ルーツの半分がある日本のアートシーンを英語圏に翻訳する役割を担おうと考えたのだ。
ヨーロッパでアートを勉強した経験と日本語が堪能であるという強みをいかして、日本のアートをヨーロッパに紹介するブログを英語で書きはじめた。そのブログがヨーロッパの美術雑誌に取り上げられ、ヨーロッパのアート関係者に「ロジャーさんのブログを読むといいよ」と口コミが広がったという。
さらに、ギャラリーや美術館を巡っている中で、のちに森美術館の館長となる南條史生氏に知り合う。2001年、横浜トリエンナーレのディレクターを務めた南條氏のアシスタントキュレーターをしたのが、キュレーターとして最初の大きな仕事となった。
そもそもキュレーターとは、展覧会の企画展示や、資料の整理・研究などの役割を担う肩書のこと。ロジャーさんは、ひとつの美術館に限らず様々な場所で横断的に活躍する「インデペンデントキュレーター」として活動をスタートし、2006年にはシガポール・ビエンナーレでキュレーターを務めた。
ロジャーさんの仕事のもう一つの柱は、仲間たちとともに2001年に立ち上げたアート団体「Arts Initiative Tokyo(AIT)」である。AITでは一般向けの現代アート講座の他に、東京都内でのアーティスト・イン・レジデンス事業の立ち上げや企業向けのアートコンサルティングをおこなった。文化事業を協働した企業には、三菱商事やメルセデス・ベンツなどの有名企業も名を連ねる。
2010年、39歳の時に長野県佐久市望月に移住したのは、長女が生まれたのがきっかけだ。ロジャーさんがイギリスの大学に通っている頃、父が望月に別荘を建てたのだ。以来、夏休みは望月で過ごしていたのでなじみもあったし、いつか田舎暮らしをしたいという気持ちもあった。
父の別荘を譲ってもらう形で暮らし始めると、たまたま引っ越していくことになった隣の家の建物を安く買い取り、「フェンバーガーハウス」という実験的なアートセンターをつくる。ロジャーさんの長年の研究をもとに、人間が宇宙の一部であるという意識がもてるような展示を実践した。展示作品の中には、スウェーデンの女性画家で「死後20年は作品を公開しないように」と遺言を残したことで知られるヒルマ・アフ・クリントや民間療法で”カルテ”を幾何学的に描いたエマ・クンツの複製なども含まれた。
ロジャーさんはそこで、ソファやクッションに横になって音楽を聞きながらじっくりと作品鑑賞に入り込めるツアーやトークショーなども企画した。
「これまでのアート界でおこなわれてこなかった作品展示の仕方や自由な鑑賞を、自分でできる範囲でやってみようという発想で始めたんです。望月にきてからは、東京やグローバルなアートの世界とは別に、住んでいるこちらのコミュニティの自分ということを意識するようになりました。大学や美術館などの組織に所属するチャンスも何度かあったんですが、常にオルタナティブを提示していく自由なあり方の方が自分にはフィットするんですよ」
望月に拠点を持ちつつも、引き続きAITの仕事や美術大学で講師を続け、2017年には東京でアウトサイダー・アートの大規模展「ミュージアム・オブ・トゥギャザー」のキュレーションを担当するなど、型にはまらない働き方を続けた。