ここで、小林多津衛という人物が生きた時代背景やその思想について触れておきたい。
1896年生まれの小林は、20歳の時に「ウィリアム・ブレイク」を読んで、衝撃をうける。それは、イギリスの詩人であり銅版画職人であるウィリアム・ブレイクの思想について柳宗悦が解説した本だった。その翌年に直接柳宗悦にも会い、柳が創刊に関わった文芸誌「白樺」を購読するようになる。
その頃、人道主義を掲げた「白樺」に共鳴する教員たちによって子どもたちの自主性を尊重する「白樺派教育」が熱を帯びる。小林も個を尊重する白樺派の教員として教育に情熱を注いだ。ところが白樺派は戦時下で弾圧をうけ、小林は葛藤の末に活動を一時的に断念する。
晩年の小林と活動をともにし、2代目館長として民芸館を支えてきた吉川徹さんによると、小林は戦中の後悔から「口を開けば平和が大事だと言っていた」という。
戦後、ものづくりが人と人の心を通わせ、それが平和につながると説いた小林の教えは地域に浸透。社会教育主事として、自分たちが生きる力を身につけることの大切さを訴えた吉川さんの働きもあり、草木染グループや陶芸グループなど、一時期は20ものサークルが生まれた。
小林は生涯を通して、ものづくりでお互いを認め合うことの大切さと手を動かす労働の喜び、そして、暮らしのなかで美しいものを使うことの大切さを伝え続けた。大量生産大量消費に警鐘を鳴らし、モノが画一化する現代社会におけるヒトの画一化を危惧していたという。
小林多津衛を慕った人のなかには、その後その教えを活かして民芸品店や料理店をはじめる人が出てきた。そのうちのひとり、山の恵や地元の発酵食などを中心に創作料理を提供するレストラン「職人館」を開いた北澤正和さんは、今や国内外の有名シェフに慕われている。根っこには、手仕事を大切にする小林の教えがあった。
小林が99歳のとき、吉川さんを含めた70名ほどの呼びかけ人が集まり、その教えを語り継いでいく場所として民芸館設立を進めた。900人以上の人たちがそれに賛同し、3000万円もの資金が集まったという。
民芸館設立の4年後に小林は104歳で亡くなり、当時町長だった吉川さんは町長としての役目を終えてから2004年に館長に就く。
設立以来支援者の寄付で運営してきたが、小林を慕った世代が高齢化するなかで「共感してくれる若い世代がいなければこの民芸館は終わってしまう」と危機感が募った吉川さんらは話し合いを重ねた。
そこで声をかけたのが、普段から民芸館に足を運んでくれていたロジャーさんをはじめとする若手の6人だったのだ。
「若い世代が参加してくれて、こんなにうれしいことはありません。若い人たちから学ぶことは非常に大きいんですよ。上下ではなく、お互いに学び合う関係ができているんです」(吉川さん)